フェイス

2002年11月21日
ある人が、私を目の前にして「○○社(私が前いた会社)の人ってお高くとまっているよね」と言った。
深く考えずに「そーだね」と言ったけど、よくよく考えたら「あんたは高飛車」って言ってるんだなってことに気づいた。

世間から見たらそうかもしれないけど、てゆうか確かにそういう部分はある会社だったけど、私はそういうドライな感じに惹かれて入社したってのもあったのだ。

なんかハイソ(死語・・)で素敵かもって。

でも実際村社会となんら変わりなかったし、いい人が案外多かったのにも驚いた。


とまあ、こういうような反論をしてみたかったのだけど、「高飛車」発言の彼にどう言ってみたって私が高飛車に見えるのは打ち消せるわけでもなく、それにそもそも反論するのもめんどいし疲れていたというのもあって、その場は「ふーん」という感じで会話は終わった。
自覚しているのではっきり言えば、私は「高飛車ではない」とは言えない。
「私って庶民的よ」なんてウソ言うのもおかしな話だし、ちょっと和らげて言えば、プライドの高い・・と言ったほうがいいのかしら??
これにはちょっとしたワケがあった。
高校生くらいからだろうか。
私は今自分の顔にあからさまな不満を持つことはなくなったが、当時はコンプレックスがあった。

「雪女系」の顔なので、近寄りがたく人を威嚇させる力があるらしく、それが思春期の悩みのひとつでもあった。


友人はたくさんいたけど、どれもみな自分からアクセスして得てきた友人ばかり。
なぜなら私のような風貌の女は、女子にとっては「女の敵系の顔」、男子にとっては「近寄りがたい系の顔」に当てはまるので、自分から無理してアクセスしなければたくさんの友人を得ることなどできなかったかもしれなかったからだ。


人は千差万別だろうが、だいたいは「親しみやすそうな人」なら話しかけやすいし親しくなりやすそうだな、と直感する。
互いの距離感も縮まりやすい。


私の場合始終ニコニコして親しみやすさを演出するなど、性分上できることではなかったので、会話やそういった外的なものからアプローチしていかざるをえなかった。
それはだれでもそうなのかもしれないけれど・・
しかしあるとき、どっと疲れが出た。
いつもいつも自分の風貌の印象を覆そうと頑張る自分に嫌気がさしてきたのだ。

「めんどくさい」
「頑張るのにも疲れた」


それ以降、無理してアクセスすることはなくなった。

したがってそれ以前に比べて新しく出来る友人の数は激減したが、無理をしないスタイルに自分は満足できるようになった。


落とし穴は今考えるとそれだったのかもしれない。
何回言ったか知れないが、私は基本的に過度なつきあいというものを面倒くさがる体質だ。

それは生まれつきではなくて、「無理をしないスタイル」に慣れてしまったがゆえの罠だともいえる。
ちなみに今日は「無理をしなければならない」環境におかれた日だったのでなかなか疲れた。

できればそっとしておいて欲しいのだが、相棒が「沈黙が怖くてやたらとしゃべりたがる」性質の人なので、それに合わせてしまった。


そんなに沈黙が怖いか・・?


私は沈黙の中でもリラックスできる間柄って素晴らしいと思うのだけれど。


とにかく判然としないまますぎた一日だった。

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